鍼灸師の3つの問題点

問題点1 道具に頼りすぎる傾向

武術家、甲野善紀氏は著書の中で、

「テレビや時代物の小説に出てくるような剣客は、剣があれば剣で、なければ、その辺りのあり合わせの物や、素手の体術でも、相手をするでしょう。つまり、武術の動きは、本来、道具があってもなくても共通しているものなのです」(『武術の新・人間学』まえがきより)

と書いています。

鍼灸師も本来、鍼や灸がなくても患者さんを相手にできなければなりません。そして、鍼や灸を手にしたら徒手を越えるパフォーマンスができる存在であるべきだと思います。これを踏まえた上で、「武術の動きは、本来、道具があってもなくても共通している」という言葉に着目してみます。

剣客が剣をもっていてもいなくても動きが同じであるならば、鍼灸師も鍼を持っていてもいなくても動きが同じでなければなりません。戦(いくさ)で勝敗を分けるのは総合力です。剣さばきで決まるわけではありません。鍼灸師が患者さんの病と相対するときも、問われるのは総合力です。鍼さばきで決まるわけではありません。

武術の視点からみれば、鍼さばきは「施術の動き」の中にあるだけです。施術における共通の動きとは何かと考える機会は、活法が与えてくれます。残念ながら、学校教育の「あん摩マッサージ指圧」の中に、活法は残っていません(教科書に文字が記されているだけです)。

剣客が剣を持たない時も剣客であるように、鍼灸師も鍼や灸を持たない時も鍼灸師であるべきだと筆者は考えます。活法には鍼灸師の存在感を変える力があります。

問題点2 技術の本質がわかりにくい傾向

鍼を持つ鍼灸師の指先で何が起きているのか、それを見抜くことは容易ではありません。説明するまでもありませんが、鍼灸師の鍼操作は極小的なものが多く、動きで説明できない感覚だけのものまであります。鍼灸が物理療法であって、物理療法以上である所以はそこにあります。

感覚を持たない鍼灸師は「鍼刺し屋さん」です。鍼灸の本質を探そうとする鍼灸師は、感覚の世界に入ります。けれども、そこで何かをつかめる鍼灸師はセンスに恵まれた一握りかもしれません。だとしても、簡単にあきらめるわけにはいきません。

活法のテクニックは、鍼灸に比べればダイナミックなものばかりです。何をどう仕掛けているのか、その「動き」を知ることができます。鍼灸の極小レベルの操作と比較すれば、顕微鏡画像がモニターに映し出されているくらい違います。

テクニックが「動作」で成りたっていることを再確認できます。名人の鍼を観て「何が違うのだろう…」と考える場面があるかと思います。活法では、その違いを動作としてハッキリ見ることができます。動作の意識が出来上がってしまえば、それを極小レベルに集注させることができます。活法を学ぶことで、鍼灸の手技まで意識化できるようになります。

問題点3 整体を知らない傾向

巷には、「痛いところを押して揉んで…」というマッサージ屋さんと区別のつかない整体もあり、「ボキボキ…」とカイロプラクティックのマネゴトをする整体もあります。鍼灸師とは別の世界の話です。

と同時に忘れてはいけないのが、別世界には、鍼灸師が驚愕するようなテクニックを持つ整体師もいることです。武術に喩えるなら、素手で剣と互角にやり合えるわけです。鍼を使う鍼灸師と結果が同じなら、明らかにテクニックでは負けています。結果がそれ以上なら、私たちは恥ずかしさを味わうだけです。

このように鍼灸師以上のテクニックを持つ整体師は一人や二人ではないということです。そして、昨今このような名人のテクニックは商業化され、全国に普及しつつあります。いつ私たちの目の前に名人が立ちふさがるかわかりません。もう既にそんな時代に入っていると思っていた方が間違いありません。

「整体」が「無資格マッサージ」である時代は終焉を迎え、利用者も結果(よくなること)を期待するようになっています。もし、私たち鍼灸師と結果が同じなら、私たちのプライドが傷つくばかりでなく、生きていく術まで失ってしまいます。

でも考えてみて下さい。本当に危機感を感じなければならないのは整体師の方なのです。整体のルーツである活法をマスターした鍼灸師は脅威になるはずです。私たち鍼灸師が存在感を社会に示すためには、誰もが認める“結果”です。療術の世界において、鍼灸師が最も有利なポジションにいることは間違いありません。そのポジションを活かすかどうかはあなた次第です。